チリ:1969年プエルト・モンで発生した大虐殺について知る

プエルトモンはチリ南部、湖水地方にある港町である。雪を被ったオソルノ山が背後に鎮座し、目の前にはレロンカビ湾、森林を覗けば美しい湖が顔を出す。自然に囲まれ、ゆっくりとした日々を過ごすにはうってつけの土地と言えるだろう。

ウルグアイ人バンドグループ ロス・イラクンドス(Los Iracundos)は偶然にもその町の名にインスピレーションを受け、力強くも繊細な歌プエルト・モン(Puerto Montt)を発表、それがきっかけでこの町は世界中から一目置かれるようになる。

 

この土地を由来とした歌は、ビクトル・ハラもまた発表している。それは、長閑に見えるこの町で起きた痛ましい事件を告発するものであった。奇しくもその事件はロス・イラクンドの プエルト・モンが発表された翌年、1969年に起きた。

1969年3月4日、低所得者家族90名がこの地域で最も裕福な地主のロシエル・イリゴイン・オヤルスン(Rociel Irigoin Oyarzún)氏の保有するパンパ・イリゴイン(Pampa Irigoin)を占領、未開拓地の公式な取得を訴えた。当初はチリ社会党のルイス・エスピノサ・ビジャロボス(Luís Espinoza Villalobos)に支援、仲介され平穏な交渉していたらしいが事態は政府介入とともに急変する。

入植から5日目の9日未明、ルイス・エスピノサはパンパ・イリゴイン以前に生じた過去6回の土地取得運動に参加、国家の内部安全保障を乱したとして逮捕、バルディビア(Valdivia)にある裁判所に送られた。更には内務大臣エドムンド・ペレス・スホビッチ(Edmundo Pérez Zujovic)の指示のもと200人もの武装警察が不法占拠解除に向けパンパ・イリゴインに侵攻。雨風を凌ぐ程度の仮設住居はまたたくまに破壊、火をつけられた。住民の一部は彼らの暴挙に対抗すべく棒や石で武装するも、カービン銃や短機関銃を手にした警官に太刀打ちできるわけはなかった。約1時間に渡る銃撃と催涙ガスによる一方的な攻撃は生後数ヶ月の赤ん坊を含め10名の命を奪い、50人以上もの怪我人を出すこととなる。犠牲者の多くは彼らの衝突を傍観していた無防備な人々で、背後から射撃された。

この事件は兼ねより都市がかかえていた人口密集問題や資産の不平等分配における市民と政府との衝突が背景にあったという。プエルト・モンでの殺戮はビクトル・ハラの歌の影響もあり、またたく間に国中に広まった。野党だけでなく、政府を形成するキリスト教民主党(Partido Demócrata Cristiano)の中からもこの暴力に対する避難の声は上がり、皆の関心事項となった。この事件を契機に人間としての尊厳のあり方、さらには資産分配に関する議論など幅広くなされるようになったという。また、この農地をCorporación de la Vivienda(CORVI※)に対し売却するための交渉が進むこととなる。

なお、スホビッチは1971年6月8日、アジェンデ大統領政権のもと、Vanguardia Organizada del Pueblo(前衛人民革命組織)により暗殺された。

※Rociel Irigoin Oyarzúnは農業、商業をはじめとし多数のビジネスを経営
※CORVIとは、当時住居建設や、災害などで影響を受けた土地の再生や再建を支援していた組織

 

ビクトル・ハラについてはこちらも参照のこと。

1 Comment

  • miyachan 02/28/2019 at 02:01

    湖水地方、美しい響き、南の最果ての美しい港町に、こんな凄惨な過去があったなんて!そんな昔ではない。自分は学校でゴミみたいな名の随分細長い国があると学んでいた頃か。日本人で知っている人は確実に0.1%未満でしょう。教えてくれてありがとう。仕事柄、農地・農業には反応します。

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